<創作メモ>

 

● 風―――夏にあって、一陣の風に秋を感じた。

● 水たまり―――カッパ、魔者、不思議、吸い込まれる感じ、太古、中世人の意識。

● 一点透視法の世界―――ポプラ並木の風景、ベランダからの風景、

● ニセアカシヤのトンネル―――木々に包まれる感じ(頭上に木の意識)

● 広場の紅葉した草―――あの朱色、太古の太陽の色。

● 朝のスズメ―――昼間とは違う懸命に生きる姿、虫を追っている、住み分けている。

● 猫をからかうオナガ―――笑い声のような叫びで、猫を木の上からからかっていた。

● エスニック―――CDの原始の人の感情の記憶、

● 目、耳、皮膚、あらゆる感覚を小説のためにではなく、一日へ、印象へかたむけ、異

  化体験をさぐること、惑星ソラリスのように。

@ 忘れている太古の感覚を思い出すために。

A 一生に一度しか使わない感覚を―――死、発狂の感覚の再現。

B 宝は足元にある、日常の、何げないものの中に、この発見をこそ。

  残された自然を求めての旅行などではなく、今に全ては無くなるとするなら、感覚を

  調律すること、呼び戻すこと。ディキンソンように、限られた中の無限の中に。

C 旅などの外的刺激、非日常的な刺激はそれだけのもの、そこには探る意識、感覚とい

  うものがない。しかし、光、水、風、生きもの、などからの感情は身近でいつだって

  蘇らせられるもの。私の胃がないことからくる病気感覚のように。

D バシュラールの蝋燭に寄せた散文、哲学詩のように、それを一日を対象にして描く。

E ギフチョウの世界での、こどものセリフ、どこから来て、どこへ行くんだろう?の疑

  問は、現在も哲学の疑問である点。

F あるシュチェーションにおける、ある感情の作品は読んでいて面白くない、書きたく

  ない。そうした感情は、ある作られた状況のものであって、現実の感情ではないとい

  った拒否感情がある。日常の中の感情なら、体験も出来るし、自分のこととして無理

  しないで解る。タルコフスキーの水、風、思い出などの世界は、なつかしく、自分の

  ことのように、作者と同じ時空間を生きている気分になれる。

G ありふれた日常の中の地球という意識−−−。生命も、石も、宇宙においては、あり

  ふれた、存在そのものといった気分が、どれだけ気持を休ませてくれることか。

H 病んだとき、典型や、普遍は役にたたなかった、聖書も、歎仁抄も、それは私の解決

  にはならなかった。私の解決とは、一日の意味、私の一日の意味であった。

I ある何ものかに向かって−−−。何かは解らない、解らないから不思議であり、価値

  がある。そうした一日への視点、書き方。

J 読者、他人は、意識しないで、自分ために、明日生きる糧のために、私のバイブルを

  目指して書くこと、いつか訪れるあの日のために、自分の生きる部分として。

K 一日がつかめれば十年がつかめるということ、ああこんなものなんだなっと。たとえ

  再発があっても、なくても、捉えておかねばならないもの。

 

 ムルソーでは死にたくない。物達への即融の関係、つながりの中で絆をもって死にたい。

包まれるように、私の星、私の木、私の山よと、語って抱かれて、共感の意識で。生き生

きとして相互に喜びあえるような−−−。

 子供の感覚−−−一日の中に包まれる神秘の発見として。

 母の祈り −−−一日への私の祈りとして。

失われてしまっている一日の発見を。

透明な感覚、思考−−−自己における真実、生きている意味。

小津が戦争を通し、無を実感し、日常を描くことに意味をみいだしたように。日常の意味

を私の実感で問うこと。小さく日常には回帰しないで。

ベケット風、サロート風、ロートレアモン風、ジョイス風。又は散文詩風−−−。詩集ス

タイルなら、一日一編を書く。抽象ではなく、省略はしないで、自分が感じられものを。

 追記として、病院でのOとの対談として、透明な思考というものを入れ、場合によって

は私の手紙も入れて、こうして一日を探っていた私へ、突然、襲ってくるのが現実の一日

というものと、現実の私とOを入れ、こんな中で有効なものは、人間の心の問題。何をど

う感じるかの問題であったと−−−。

 わたし自身の所有と存在なのだから、わたし自身が所有していく、わたしに於ける一日

が定着させられればいいのだから−−−。私の方法で、私自身が深まる方法で−−−。

 ジョイス、プルーストをやり直すことではなく、無名の小片を発見するために。未知の

かくされたものを明らかにするための形式の発見へ向かって−−−。

 

 

              ぼくの「所有」と「存在」

 

山口和朗

 

 一日というものがどういうものか、少し判ってきた気がする。それは一つの印象でいい

のだった。たとえばきょう、終日ヒヨドリがベランダの手摺で啼き続けていた。いつもの

威嚇の声ではなく、悲痛の、痛々しい声で。

 

 

 

 

 

 

 

  はじめ親鳥は、自分の居場所を知らせるだけの単調な啼き声で、子供は可細い声で

 それに応え、親と子は声でつながっていた。親は見通しの良い場所に居て啼き続け、

 子はそんな親の姿と声に安心してあっちこっちと飛び回り、時には餌も取ってもらっ

 て、巣離れの最中だった。ついこの間まで、巣から長い首を伸ばして餌をねだってい

 ただけの雛が、今では一飛び五十メートルの敏捷な翼に−−−。子供は行動範囲を広

 げ、声が何度か聞こえなくなる。が、親鳥はそんな子供に、変わらず声をかけ続けて

 いた。しばらくすれば戻てくる子供の声だったから。ところが何回目かの飛翔の後、

 子供は戻って来なかった。親鳥は声のオクターブを上げ、木の枝で、ベランダの手摺

 で、闇が迫るまで啼き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 その日、親鳥と子供が巡り合ったかどうかは知らない。ただ、ぼくの部屋に終日響いて

いた、その親鳥の声。これがその日のぼくの一日というものの印象。

 一日というものが、何かの印象で形つくられていくと思う。

 勿論、何の印象も感じない一日というものも多い。そんな時はたいてい手なれた動きの

中にいるようだ。掃除、洗濯、炊事、仕事、テレビを見るといった。

 

 

 

  掃除をして、物たちが生きかえって見える。ステレオの音がきれいになったよう。

 花瓶の表面には光が粒となって煌めき、ぼくの部屋に、音と光と風が充満し−−−。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、後から探ってもそれは印象にならない。印象とは、同時性のもの。一つか二つの、

体験なもの。そうした印象だけが、一日というものを思い描かせてくれる。

 ぼくは、真夜中によく散歩をする。公園の外周を一回りしてくるだけの、時間にして三

十分たらずのことだったが。目よりは耳がはたらき、耳よりは意識がはたらくというよう

に。目は刺激を受けない黒の単色だから、耳は人々が寝静まった静寂だから、意識はそう

した刺激の少なくなった外界の中で、リラックスしていく。外界からの印象というものは、

短絡的。風の音、木々のざわめき、時々疾走していく車ぐらい。輪郭のぼやけた風景の中

で、ぼくの意識だけが浮かんでいるような気がしてくる。確かめたかったぼくの一日とい

うものが、ぼくにおける一日の意味が感じられる気がしてくる。これからの数ケ月、何が

ぼくに一日というものを印象づけていくのか、どのように一日は記憶されて行くのか?

 

 

 

  舗道に枝を伸ばした街路樹。ニセアカシヤ、挟竹桃、樫の木、柳。木のトンネルと

 なって下を行くぼくを包む。ニセアカシヤは頭上すれすれに伸び、そこを歩く時、い

 つも頭を撫でられるような気がする。挟竹桃は暗がりにボーッと白く花を浮かび上が

 らせ、時々ボソッと、思わぬほど大きな音をさせぼくを驚かす。樫の木は枯れた硬い

 葉をカサコソ音させ、柳はこの数日で伸びた枝で、ぼくの顔をぬぐう。真夜中の公園

 は木達の気配で溢れている。

 

 

 

 ところで、今ぼくは何を探ろうとしているのか?。一日の印象、ある印象が一日を形づ

くるということ。初体験な印象が、同時性に於いて捉えられたとき−−−。

 

 

 

 

 

 

  公園の外周に植えられたポプラ並木、一点透視法の不思議な世界。背丈が二、三十

 メーターはあるポプラが、低い家並と平行に植わり、その中を細い道が公園の外周を

 はるか越えて伸びている。ポプラ並木の空に伸びた鋭角的な三角形と、地平に横たわ

 った家並の三角形。そこを歩く時いつも、吸い込まれるような感覚になる。遠く視界

 の届かない一点を見つめて歩くと、絵の中に入って行くような、風景と一体となって

 いくような不思議な気分に包まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 初体験ではないが、日常の繰り返されるものの中でも記憶されていく一日の印象−−−

なにげないものでも、ふと見つめた時に感じた印象。そんな印象も、今のぼくには忘れが

たい一日として形つくられていく。

 

 

  舗道のくぼみに出来る水たまり。ひとまたぎほどの浅い、いつも枯れ葉などで汚れ

 ている水たまり。またぐ時ふと覗いて見た。瞬間おとづれた感覚、色のない白黒のも

 う一つの世界のこと。水銀が禿げ落ち黒い染みの浮き出た古鏡を見ても、おとずれる

 あの不確かなもう一つの世界が、街なかのあちらこちらに、口をあけているように思

 えた。しゃがみこみ、更に覗きこむと、自分の顔が薄黒く醜く映り、もう一つの世界

 の景色そのものだった。木の茂み、電柱、そして雲、見えるのはそれだけ、色彩の無

 い、単純な、暗い、井戸の中の世界−−−。今ではもう埋められてしまった、数々の

 沼や池のことも思い出された。飛び込み自殺のあった三ッ池、フナ釣りの用水池。河

 童が住んでいると聞き、けっして泳げなかった新池のこと。これらいたる所にあった

 池や沼の思い出が、水たまりには映っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今のぼくは、何故このような、ありふれたものの中に、一日を印象づけていくのか?。

散歩の度に思い出すこれらの感覚。日常の、身近なものの中にあるからこそ蘇り、立ち返

ることになる。今のぼくにとっての一日。蘇り、立ち返らざるを得ないもの。何かの目的

や行為のためにあるのではなかった。やらなければならないことは色々あったが、ぼくに

は意識と行動の間にズレがあった。意識してもすぐには行動ができなかった。それが、た

った数分で終わる行為であっても。何かの弾みで行動に移ることはあったが、湧いてくる

ものを待つ時間が常に必要だった。休息は、労働の後の眠りより強く要求された。眠りも、

目覚めも、その日の身体の調子によってしか出来なかった。一日にやれることは少なく、

一日がリズムをもって訪れることはなかった。

 

 

 

  夏の夜の一陣の風に秋を感じるということ。これは幾度も重ねられてきた印象。秋

 を知っていて、その侘しさや、もの哀しさの記憶の上に初めて感じられる印象。重ね

 られてきた行為がなかったら、風に印象は乏しい。朝夕の景色はまだ夏なのに、肌に

 印象づけられた秋の気配。肌が感じとっていた。樫の木林の白い風、くぬぎ林の黄い

 風。少年の日一人の世界で感じた、風への印象の記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼくは、何よりもこれからの十年というものを感じてみたかったのだ。それができない

では、安心して一日がおくれない心地だった。十年というものがどんな感じなのか?。何

によって構成され、何によって印象づけられていくのか?。そのためには一日を、そして

日常を、日常の中のさり気ないものの探究を−−−。

 印象だけが、人の心に残っていくように思えるのだった。芸術や、科学、宗教、哲学、

どれも形をもって表されてはいるが、それは人の印象の残骸物、そして、それらは誰かの

ものであって、ぼくのものではない。時間の無限の中にあっては、ただの物、外界物。し

かし、ぼくの印象だけは。生きてあるぼくの、一日の中に含まれて在るその印象の中だけ

には−−−。あの生き物の持つ、生きて変化していく色彩のような輝きがあるはず。

 

 

  どこの道端や荒れ地にも生えている、秋になると思い出し、出会える一つの草があ

 

 

 る。名も知らない、背丈五〇センチほどのヒョロヒョロとした、その草のさほど大き

 くはない何枚かの葉のうち、一枚か二枚が、血に染まったとしか思えないような朱に

 染まり、ぼくを驚かす。他の葉も幾つかは緑葉にまじって様々な赤を現し、見ていて

 飽きない。一本の草でこれほどの変化を感じさせてくれるものを知らない。ぼくはそ

 こに夕陽、朝日、深山幽谷の紅葉を見るのだった。十年も前、散歩の途中で味わった

 その草の印象は、今も消えることがない−−−。間もなく会えるあの草のこと。

 

 

 

 

 あらゆる哲学、芸術、宗教でも表せないものが、時間と空間とを統一したところの生き

て流れている一日というもの。説明したり、定義づけたりは出来るが、その絶対的な、不

可逆の時そのものを表すことは出来ない、表していくその隅から消えていく一日というも

の。一日の時空は、その不可逆の時を生きて感じる、その人だけのもの。ぼくはいま、印

象を通して一日を考えようとしているのだったが、何がぼくにこれほど一日というものに

こだわらせるのか?−−−。あの日、ぼくは、ぼくにとっての一日の意味を知らなかった

が為に、うろたえ、とまどったのだった。

 

 

  <これが本当に死というものだろうか?>アンドレイは、草や、にがよもぎや、く

 るくる廻る黒い球から噴き上げている煙の流れなどにまったく新しい羨望の眼を注ぎ

 ながら考えるのだった。<おれは死にたくない。おれは生きることが好きだ。この草

 や空気が好きなのだ−−−>(中略)−−−<だが、今となってはもう同じことじゃ

 ないか、−−−いったい、あの世には何があるのだろう、また、この世には何があっ

 

 

 たというのだろう?。なぜおれは生と別れるのが惜しかったのだろう?。この人生に

 は、おれの分からなかった、そして今だに分からない、何かがあったのだ>

                        (トルストイ、戦争と平和より)

 

 

 

 

 いずれ訪れるぼくの消滅の日、その日の為に探り、書いておくこと。このことが、意識

する生命としてのぼくの使命だと、理解したのだから。一日というものが、ぼくにとって

どんなものか?。そこには何が含まれているのか?。解ってはいる、そして感じてもいる

のだが。ただ、それらを言葉を使って表そうとする時、過ぎ去る一日のようにとどめられ

ない不可能を感じるだけ。一日というものは、健康の恢復、日常性の中で、日々変化して

いく。輝いたり曇ったり−−−。そんな一日の何分の一かでも、何時間かでも、探り、書 

き表しておきたいのだった−−−。ぼくの一日というもを。 

 タゴールを読んでいると、心地良い気分に浸れる。自然、存在そのものへの調和といっ

た、一体へと誘ってくれる心地良い調べに包まれる。ぼくは一日の中に、こうした調べを

こそ見付け、感じたいのだった。感じてはいる。考えることから、感じることへ−−−。

唯一なるものへ、ユニティーへ−−−。

 

 

  ぼくにとっての一日のイメージ。一日とは、人々を包むものでなくてはならない。

 やさしさ、神秘さに満ち。生きた一日が、喜びとなって記憶され、積みあげられ、充

 分に味わえたと感謝し終われる。そんな一日が、明日も、またその明日も続くという

 ことの恍惚でなければ−−−。ぼくはそうした一日をイメージしてみたいのだった。

 

 

 一日がノスタルジヤではなく、未来へのタイムトンネルのような、神秘性を持って拡

 がっていないなら、人にとって何のための一日なのか?。過去も未来も含んだところ

 の、無限の一日というものを−−−。

 

 

 

 

 健やかな一日、公園の街灯の光が届かない、木の下のベンチに腰掛け時を過ごす。夏の

夜と違って、今、晩秋、蚊はいない。少し肌寒いが、風呂あがりのぬくもりがあり、コー

トの衿を立てれば、心地良い風。黄色の半月、星、人のいない公園、眼に優しい暗がり、

一日の印象を反芻させ、刺激に疲れた身体を休ませてくれる。小一時間も、立ち去りがた

く、何を思うこともなく、いい気持、いい気持と座り続けていた。          

 

 

 

 

 

 

 

  ぼくが台風の中に立ち尽くすのは、麦畑を浪打たせ、渡っていた風の印象や、スス

 キの葉裏を逆立て渦巻いていた彼らの印象があるからだった。夏の暑さにシャツを吹

 き抜け、身体をゆさぶった、少年の日の記憶。色々な一日がある中で、風の中の一日

 は、ぼくに立ち止まる一日を与えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの散歩道を行く。舗道には枯れ葉が積もっている。秋草がおい繁っている。風が

木の葉を揺らす。肌にやさしい風。溢れる物たち、家々の灯り、漏れてくるテレビの音、

人の笑い声、あらゆるものが一日の中には詰まっている。真実も、神も、全世界が、この

中にはあり、ぼくはいま、その気の遠くなるほどの出来事と、物達の詰まった一日の中を

歩いている。山紫水明の自然の中に居るわけではない。外国旅行の、知らない街を歩いて

いるわけではない。いつものありふれた、幾度となく目にした、どこにでもある景色と、

物達、空間の中−−−。色あせることのない一日というものの中に。

 

 

  立ち止まって、思い出して、沈黙して、眼にするどんな物でも、凝らし見つめてご

 らん。美と、不思議さと、豊かさとが見えてくるはず。自分自身も不思議だが、あら

 ゆるものが−−−。様々な形、様々な暮らし、「おお、水の上を回転し、のたまうも

 のよ、小さな黒いチョッキを着て、お前はそこで何をしているのか」と。ぼくが、ぼ

 くを創造的に語ること。個人として、この世に発見したぼく個人を。ぼくがぼく個人

 の奇蹟を感じたいのなら、ぼくがすべての物に、名をつけ、交感していくこと。現実

 をより高い次元でとらえ、それを再構成していくこと−−−。小さなものの中に偉大

 なものを。偉大なものの中に小さいものを見て−−−。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼくは毎日を、一日とは何かを考えて過ごしている。ぼくにとっての一日、一日は考え

なくとも、書かなくとも、今もぼくの目の前に拡がっているのに。一日は、誰に知られる

こともなく、それぞれの中に、豊かに、美しく、どこにだって拡がっているのに−−−。

あのブナの木の、陽に映える喜び。獣たちのあの暮らし。彼ら、一日を意識などはしてい

ない。あたりまえの、信頼し、任せきった生きものたち。ぼくが、ただちに彼らのように

一日を生き始められるなら。一日は、今も、明日も、永遠に続いて行くと思えるのに、有

限を意識している。ついえ去る日のことを考えてしまう。

 日常の、一日の中に無限を見い出す哲学を、これは人の祈りとして、普遍のもの。いか

に見い出すかは、ぼくの祈り、人の祈りの中にある。いつの時代にあっても、人は有限の

生命にあって、生命が一日こっきりであることを知っているのだから。人のその生命とは

この一日の体験の中にあるとは解っているのだがら。

 存在してしまっている物達に、人は何も付け加えるものなどないのだけれど、存在して

いるぼくの一日にも、何も付け加えることなどないのだけれど、人はいつの日か存在を終

えねばならないことが、何物かを一日に付け加えたい欲求にかられる。あらゆる芸術が、

この存在から非存在への不安と虚無に抗って書かれ、創られている。存在していたその作

者には、無限の一日というものがあったのだけれど、この日常は、この一日は、何より奇

蹟的なものとして、全身で感じられる確かなものであったのだけれど。たとえ、無秩序、

無意味に見えても、その人が存在していることにおいては、意味と秩序を感じられるもの

であったのだけれど。一日は指の間からこぼれ落ちていくのだった。

 日常が消えるとき、人は日常を発見する。病んで健康を、ぼく自身もそう。あんなに、

健康だけを願い、一日の中に生きることだけを願った日々だったのに。この日常の中にあ

って、このぼくの肉体にあって、それは色あせ、失われていく−−−。この平穏な日常に

問題が?。このぼくの、健康を恢復した肉体に問題が?−−−。健康と、平穏。何より求

めたものだったのに−−−。

 

 

  赤道下の常夏の楽園に生きる彼ら。海と山からの自然の恵みを、必要なときに、必

 要なだけ取り、生きている。食べることが満たされれば、遊び、眠るだけ。一日の終

 りには、恵みに感謝し、祭りをする。踊り、歌い、祭りは夜毎に行われる。一日に包

 

 

 まれて生きている彼ら。年中行事ではなく、一日を生き、一日を死ぬように。始まり

 もなく、終わりもなく−−−。太古、人類はこうした、豊かな生きていくことに何の

 抵抗もない、感謝が自然な環境に住んでいたと思える。いつの日か、北へ南へ、高地

 へと、子孫を増やし、住み辛い地へと移って来てしまつたと。

 

 

 

 

 一日を考え続けているのだけれど、またそれを作品化しようともしているのだけれど、

一体それらはぼくにとってどんな意味があるのだろうか?。−−−一日はフルスピードで

去っている。ぼくは何も変わっていないのに、回りは目まぐるしく変わっていく。一日に

ついて考え、それを記憶しようとしていただけのぼくの三ケ月だったのだけれど、季節は

もう秋、そして冬。ついこの間、ニセアカシヤの花の舗道を歩いていたのに、今枯れ葉舞

う舗道に。ぼくは何も変わっていないのに、回りが変わってる−−−。

 ぼくが一日を考え続けているのは、今日の一日が、ぼくにあるということが、何にも替

えがたい存在として刻印されたからだった。否、今のぼくは、一日の重さに、一日という

ものの大きさに打ちひしがれているのだ。一日が当たり前のものとして戻って来ている今、

かつての掛けがえのなさ、神秘性、奇蹟性は薄れ、一日の存在が、死よりも自明のものと

考えられ、安逸−−−。多くの戦争体験が、いつの時代にも風化されてきたように。

 忘れられない、変わらない、蘇ってくる記憶を−−−。

 

 

  ぼくは一人ぐらしの母が、毎日どんな暮らしをしているのか、見てみたいと思い、

 前もって遊びに行くことを告げないで出掛けた。夕暮れの薄暗くなった部屋に、電気

 

 

もつけず母の小さな後ろ姿−−−。「何を祈っていたの?」「貴方たちの健康と、御

 先祖さまへのお祈り」「朝晩、欠かしたことはないわ、朝にお祈り夕べに感謝。今日

 もどうか一日無事でありますようにと」。母に祈られていた驚き、一日を、習慣のよ

 うに祈り続けてきた一人の母の発見−−−。

 

 

 

 

 もう十年も前になるこの記憶を、いまぼくは新鮮に思い出している。朝に祈るというこ

と、今日一日無事でありますようにと、そして無事であった夕べにその日を感謝する。一

日の意味を、一日というものがどういうものかを、すでに母は知っていたのだろうか?

−−−。近ごろのぼく、一日の無事を、本当に当たり前のように考えている。一日という

神秘と、奇蹟を感じてない。宇宙の果てまで繋がっていたぼくの一日というもの、空間へ

の畏敬、生かされて在った生命という−−−。今ぼくも一日というものを祈ろうと思う。

祈りをもってぼくの一日を送ろう−−−。

 

 目−−−。ぼくはこの目で何をみるのだろうか?。

 

 

  火、人間にとって火は神を手に入れたようなもの。寒さから、獣から身を守り、太

 陽とは違った、身近な、神に等しいもの。洞窟に赤々と揺れて燃える火、火を使い、

 火と共に生きる人間は自然に対し優越を感じ、安心を見い出し、火を見つめて、囲ん

 で、知性を広げて来た−−−。